本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
夜鳥の本質は闇夜
夜鳥の本質は、太古の昔、日の光を隠し、数多のケガレの元凶となった「闇夜」だろう。つまり、人々の恐怖心、恐れなどの負の感情を増幅させるもの。いわば触媒。
夜鳥の悪羅王復活計画の本質は、「荒れすさぶ嵐」の化身たる悪羅王をケガレ側、闇側に留めおこうとする「闇夜」の企みである。
巴衛との最後の闘いで描かれる、地面から生えてくるおぞましい手は、奈落の底へ引き込もうとする闇夜のケガレの象徴。黒麿は対の姿をとるので黒い手は夜鳥の本質を示すものである。
夜鳥は毛玉(悪臭)を核として、きらかぶり(悪趣味)、助(卑しさ)その他の集合体である。そしてどの段階でも巴衛は嫌悪感を示している。
毛玉=「悪臭」=ケガレ
巴衛が奈々生に感じた「甘い匂い」は「桃」の匂い。
「桃」は邪気をはらう清らかなものである。黄泉から脱出するイザナギが桃の実で追手を追い払ったことから。
また、年末闇市で、トクトクの木(「良質な香木で邪気払いにも効果がある」)を奈々生が「甘い香りがする」と言っている(第11巻)。
すなわち、「甘い匂い」とは「邪気を祓う清らかなもの」を指す。
したがって、対する「悪臭」とは「邪気」「ケガレ」である。
「特にお前 悪臭がする 俺の近くには寄るな」(第14巻第83話)
巴衛が毛玉に感じた嫌悪感の元凶は、毛玉が放つ闇夜のケガレ、邪気そのものである。
甘い匂い=桃・トクトクの木=邪気を祓う清らかなもの
悪臭=塵芥=無価値なもの。邪気・ケガレ
世界は自分の認識でできている。全ては認識することから始まる。自分の心を言語化することによって説明することができるようになる。
言葉に力が宿るのは、言葉が頭の中のもやもやとした感覚を具象化する力を持っているからだ。まさに古代の人々がよくわからない自然現象を説明するために「妖怪」と言う概念を生み出したように。
過去の巴衛は、奈々生の言葉により、「人の痛みがわかる狐」である自分を自覚した。
同様に、巴衛が発した言葉は、いわば言霊となり、毛玉をして本当に「無価値」であり「邪気を放つもの」と認識させてしまったのである。ここに闇夜の化身「夜鳥」の原型たる「毛玉」が誕生する。その本質は、自分自身すら捨ててしまう自己否定にまみれた闇夜そのもののケガレである。
巴衛だけでなく周囲の反応もそんな感じで、だから益々毛玉は自己否定に突き進んでしまうのだが、毛玉と巴衛の一番最初の邂逅であの台詞をもってきたのは、そこに発端があることを示唆している。
「強い奴が好き」悪羅王様は言った…でも強くてもダメ あの男みたいにおそばに置かれることはない たとえあの狐を食べても…(俺はああはなれない)(第17巻第99話)
第17巻第99話
涙を流しながら台詞を吐く毛玉は、如何に彼が絶望の底にいるか、自己否定の極みにいるかを描かれているし、事の発端が巴衛、すなわち、他者からの存在否定にあったことを示唆している。後の夜鳥の「私はあなたが一番邪魔でした」(第23巻第137話)もそれが現代まで続いたことを言っているのだ。
夜鳥ができるまで
その後毛玉は様々な者を取り込み、肥大化していく。
美の演出家「煌かぶり」
依り代たちの首で作った煌かぶりの作品に対して、巴衛は「げー」「ムカ」と表情で嫌悪感を示している(第16巻第91話)。
第16巻第91話 |
「死者こそ美の体現者」(第16巻第91話)という煌かぶりは死をもたらし、恐怖の対象であり、ケガレそのものである。
毛玉が雪路の嫁ぎ先を教えたエピソード(第17巻第96話)は、毛玉が悪羅王に自らが役に立つことをアピールするものである。本質的には、巴衛と悪羅王を仲違いさせようとする闇の化身の企みの一環である。
人間「助六」
奈々生が過去で出会った人間「助」は卑しい人間である。仲間に誘われるがままに奈々生を襲い、花嫁の身代わり計画のときは自分の命惜しさのあまり奈々生が身代わりであることをバラしかける。
雪路のいる家に火をつける助を捕まえる巴衛(第17巻第98話)は「所詮虫けらか…」と言って捨て置くが、殺しはしない。
以前の巴衛なら斬り捨ててもおかしくないが、奈々生に「殺さないで」「人の痛みがわかる狐でしょ」と言われてから、おそらく殺生を控えているのである。
「神様はじめました」考察 「人の痛みのわかる狐でしょ!」(第16巻第93話)
毛玉が雪路のいる村を悪羅王に教えたのは、毛玉が助と同化したからである(第17巻第99話)。助の記憶から知ったのだろう。そしてそれを悪羅王に告げたようである。
これも、悪羅王と巴衛を仲違いさせるための闇の化身の謀略である。
自己否定=究極の負の感情
毛玉がきらかぶりを喰らい、敵対する神々も喰らい、最終的に「虫けら」と思っていた人間である「助」に自分を食わせてしまうのは、いわば自己否定の究極形態ともいえる。
自分さえを捨ててしまうという自己否定の感情は、人間が抱く負の感情のなかでも最たるものである。自分を捨ててしまうというのはつまり、自分を滅してしまうということでもあり、根本的な破滅である。
だからこそ、夜鳥は神話の人々が日の光を奪われて闇夜が広がったときにケガレが蔓延して恐れたように、穢れを招く元凶たる「闇夜」の化身なのである。
現代
現代における夜鳥の一連の暗躍は、直接的には、夜鳥が執着する悪羅王を復活させる計画達成目的である。
「霧仁殿がいなくなったところで支障はないのです 私の望みはただひとつ 悪羅王様と同化することなのですから」
(誰よりも近くに 永遠にお側に)
「その血と肉を分け合う存在になること」
「だってこれから私達はひとつになるのですから」
(第23巻第136話)
毛玉の夢は、復活した悪羅王に自分を取り込んでもらい、同化することだ(第23巻)。しかし、メタ的には、「荒れすさぶ嵐」の化身たる悪羅王がハレ側に転じるのを引き留め、闇側、ケガレ側に引きずり込もうとうする「闇夜」の謀略である。
第21巻第120話では、霧仁の心の中にたくさんの大切な存在ができていることを夜鳥が感じ取り、拒絶反応を示す様子が描かれている。その後の霧仁の最期でも具体的に描かれていたが、この時点ですでに、霧仁の心の中には、菊一、巴衛、母、奈々生など大切な存在ができていることが描かれている。
霧仁が光の方へ転じようとしているということであり、「荒れすさぶ嵐」の化身たる悪羅王がハレ側に転じるのを引き留め、闇側、ケガレ側に引きずり込もうとうする「闇夜」としては許せないのだ。
第21巻 |
「どうせ全員悪羅王様に殺されてしまうのですから」(第21巻)という台詞は、悪羅王の本質の変化をみないものである。
第21巻 |
「霧仁殿が人間になびく前にここで始末しておく」という台詞は、メタ的には、夜鳥の企みは「荒れすさぶ嵐」の化身たる悪羅王(霧仁)をケガレ側にとどめておこうとする「闇夜」の謀略であることを示す。
最終的に夜鳥は霧仁の命を奪ってしまうのだが(第23巻)、これは、夜鳥が悪羅王の体に固執し、悪羅王の本質を軽視したからだと説明されている。しかし、メタ的には、霧仁が光の方へ転じるのをまさにストップしたものである。
もっとも、霧仁の本質=心は救済され、結局光の方へ転じる。
霧仁は母・亜子をかばい、落命するのだが、その心のケガレは、奈々生の日の光と母・亜子の愛情によって浄化された。霧仁の心は、光の側へ飛び立ったのである。ここに「闇夜」の謀略は失敗した。
「所詮霧仁殿は人間の混ざり物 純粋で完璧な悪羅王様ではなかった」(第23巻第136話)
悪羅王を闇に取り込むことに失敗した夜鳥は、次のターゲットを巴衛にすえるのである。