本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
「家族」と「意思」の回復
奈々生が時として巴衛の「自由」を制約する結果となるくらい、彼を「思いやり」、「背負おう」とするのは、奈々生が巴衛に「失った家族」を見ているからだ。
幼い頃の母との死別、火事により家を出る、父親の家出により遂に家まで追い出される・・・
一連の出来事は、彼女の「家族」の喪失であると同時に、外的事情により彼女の「意思」が抑圧される過程である。
彼女が巴衛にみていたのは、失った「家族」と抑圧されていた自己の「意思」の回復であったのだ。
だからこそ、奈々生は巴衛を守り、助け、支えることで、「家族」と「意思」を取り戻そうとするのである。
さらに巴衛が人間になると言いだすころには、巴衛の願い、即ち、「巴衛の意思」もかなえてあげたいと思うようになるのである。
彼女が巴衛に寿命問題を隠したのは、巴衛を不安にさせて、巴衛の人間への関心の象徴である球根の芽が枯れることを危惧したからだ。すなわち、人間になりたいという巴衛の願い(意思)を支える為だったのだ。
つまり奈々生の求めてきたものは、彼女の「意思」の尊重であると同時に、巴衛の「意思」の尊重でもあるのだ。
自由な意思に基づく自己決定
しかし、彼女は、最終的に、巴衛の求めるものが「自由」であり、自分にも「自由」になってほしいと考えていること、また、「意思」とは選択し判断することの自由を前提とした「自由な意思」であることを理解するのだ。
「私が巴衛に夢を見てるように」(第24巻第143話)という奈々生の台詞の本質はそこにある。
巴衛が「お前が泣こうがわめこうが俺は人間になるぞ」という巴衛の台詞に対して「わかっている」と答える(第24巻第142話)のは、巴衛が求めているのが「巴衛自身の自由」であることの理解であり、
「巴衛も私に夢を見てるんだ」(第24巻第143話)というモノローグは、巴衛が求めているものが「奈々生の自由」でもあることを理解したということなのだ。
インフォームド・コンセント
インフォームド・コンセント。十分に情報を与えられた上での意思決定が個人の尊厳に必要だということ。
「きっとあなたはこれが好きでしょう」とカレーライスを出しても、ミートソースが食べたかった人の心には響かない。
選択の自由は本人に委ねられなければならない。それが相手を尊重するということだ。
自由意志に基づく自己決定を尊重
寿命問題で巴衛がその後解決策を彼なりに考えて俺が守ってやると言ったり、招き猫回で俺はお前の100倍優秀だと言ってバイトで活躍したことなどを見ると、事情を打ち明けてくれれば彼なりの解決策を思いついたのにという自負もあるのかもしれないし、そもそも選択決定の自由を欲しかったのだ。
沼皇女と小太郎の顛末
「二人が決めたことなら応援する」(第25巻最終話)
最後の結婚式の時に沼皇女と小太郎が手に手を取り合っていなくなる時ななみは「二人が決めたことなら応援する」という。これはまさに、奈々生が、自由意志に基づく自己決定を尊重することが大切だと理解したということの何よりの証だ。
巴衛と奈々生の人生
「自分たちが選んだ人生の途中にいる」(第25巻最終話)
「自分たちが選んだ人生」というのは、つまり、自分たちが自由な意思に基づいて自己決定したということだ。
過去編までは未来の誰かの采配に振り回されて生きていたから、自分たちで決めたとは言えなかった。
自由意志に基づく自己決定でこそ自己実現したと言えるし、それが自分らしく生きるということだ。