本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
いつ巴衛は「心」が大事だと認識したのか
最終巻とそれまでの巴衛のあり方の違いから、最終的に巴衛が「心」が大事だと認識したという結果はわかる。ではいつどういうプロセスで認識したのだろうか?
ここでもやはり「言葉」が重要であった。
世界は自分の認識でできている。言葉が力をもつのは、抽象的な概念を具体化してくれるからだ。
悪羅王・夜鳥編の終盤、奈々生は夜鳥に向かって以下の台詞を投げつけていた。
「…人間でも妖怪でも大事なのは器じゃなくて心だよ 本当に誰かを求める時欲しいのは体じゃなくて心でしょ」「たとえ悪羅王の体を手に入れても霧仁の心が入ってなきゃそれは悪羅王じゃない」「それでもいいって言うならあんたは悪羅王の強さと不死の体に執着してるだけの薄っぺらい男だわ」(第23巻第136話)
この一連の台詞のときに巴衛の描写はなかったが、やはり巴衛もきいていたのであろう。
このとき巴衛は、奈々生の「言葉」をきいて、奈々生が「誰かを求める時に欲しいのは体ではなく心である」「器に執着するのは薄っぺらい男だ」と考えていることを認識した。
しかし、この奈々生の言葉を受け入れるためには、奈々生が「神様」であることを受け入れる必要があった。
そして、夜鳥と向き合っているときに、奈々生を「神様」(=生きる指針・よりどころ)と見出したからこそ、奈々生の考え方、すなわち、「心」が大事だという考え方を受け入れ、それをよりどころにして、夜鳥の誘惑を払いのけることができたのだ。
「だめだよ巴衛」「一時の感情に流されて自分を捨てないで 道を見失わないで 私が愛してるのは貴方よ」(第24巻第139話)
第24巻第139話 |
直前の奈々生の台詞から、巴衛は、奈々生が愛しているのは、自身の体ではなくて心であり、本質であるというメッセージを導き出した。
「俺が悪羅王になれば俺が俺でなくなるかもしれない」(第24巻第139話)
⇒ 巴衛の本質が変容するということ
「私が愛しているのは貴方よ」
⇒ 奈々生が愛しているのは巴衛の体(器)ではなく心(本質)
⇒ 夜鳥と同化することで、巴衛の本質が失われたら、奈々生の愛する巴衛ではなくなる
⇒ 奈々生の愛を失う
⇒ それは回避したい・・・過去で「そんなこと言う巴衛は嫌!!」と言われたことが巴衛にささったように(第16巻第93話)、巴衛は奈々生の愛は失いたくないのだ。
⇒ 「自分を捨てる」=悪羅王になって「俺が俺でなくなるかもしれない」(第24巻第139話)という事態は回避しなければならない。それこそ奈々生に「薄っぺらい男だ」と言われてしまうかもしれない。
⇒ 自分を捨てない
「悪羅王の器」と「奈々生の愛」という究極の選択を迫られた時に「奈々生の愛」を選ぶということは、つまり、奈々生が巴衛にとって「生きる指針」「生きるモチベーション」であるということだ。つまり、それが神(よりどころ)の本質である。
⇒ 奈々生の言うことを信じる。
⇒ 「人間でも妖怪でも大事なのは器ではなく心。本当に誰かを求める時欲しいのは体ではなく心」「悪羅王の器は悪羅王の心が入っていない以上悪羅王ではない」という考え方に納得した。
⇒ 巴衛が求めていたものも奈々生の「器」ではなく「心」。奈々生の心が入っていない「器」は奈々生ではない。
「一時の感情に流されて自分を捨てないで」
⇒ 「心」が大事なら、一時の感情に「心」が振り回される自分は本質的に自由ではない
⇒ 自由になるためには自制心が必要
心が大事なら、「神と神使の契約」に欲望が制約されるのもまた自由ではない。
⇒ 「神と神使の契約」は自分の自由意思を制約するもの
巴衛は、火の山で夜鳥の手を取ろうとした刹那に、様々な本質を理解したのである。
「自分の神様が奈々生であること」の「本質」
巴衛は夜鳥を追いかけ、火の山に入るために一旦奈々生との「神と神使の契約」を解除して妖に戻る。形式的には、火の中でも夜鳥を追いかけるためだ。
しかし、本質的には、奈々生と「神と神使の契約」を解除した巴衛が、それでも奈々生を自分の「神様」(=自分の大切な存在、「星」、生きる指針、精神的指針)と認識して、自分の道を間違えないか(迷ったときに誰の手をとるか)が試されていたのだ。
巴衛は、火の山で夜鳥の手を取ろうとした刹那に、「自分の神様が奈々生であること」の「本質」を理解し、「神様」の本質を理解し、自分が「愛する奈々生」の本質を理解したからこそ、夜鳥の手を取らなかった。それが巴衛自身を救ったのだ。
「言葉」こそが心を伝える最強のツール
過去の巴衛は、「人の痛みのわかる狐でしょ!」(第16巻第93話)という奈々生の言葉により、「人の痛みをわかる」自分に気がついた。それと同様に、現代の巴衛も、奈々生の言葉により、大事なのは器ではなくて心だと気が付いたのだ。
そもそも、過去で奈々生が巴衛に「嫌!!」と言ったのは、「お前の遺志など関係ない」と巴衛が言ったからだ(第16巻第93話)。奈々生は「心」や「意思」を無視されるくらいなら、巴衛ですら「嫌」と言う。それはつまり、彼女が自分の「心」を大切にしているからに他ならない。
当時の巴衛は、奈々生に嫌われたくないからこそ、「俺のものになれ」という言葉を言い換えて、素直な気持ちを言葉にのせた。だから奈々生に想いが通じたのである(第16巻第93話)。このとき巴衛は「言い方」が嫌だったものと理解したが、実は、奈々生が嫌だったのは、言い方ではなく、巴衛が自身の「心」を無視したからなのである。
巴衛は、火の山のふもとでの奈々生の「言葉」により、奈々生が大事にしていたものが「器」ではなく「心」であったことを知る。
誰かを求めるときにほしいのは器ではなく心である。しかし、それを理解していないからたまに間違える。巴衛が心を軽視するのは彼が自然現象の具象化だからだ。しかし、彼が本当に求めてきたのは奈々生の器ではなく奈々生の心であった。それを認識したのが、奈々生の「言葉」である。
だからこそ最終決戦を経た後の巴衛は言葉を大切にするようになる。言葉で奈々生に対する愛情を表現するようになるのだ。大切なのは「心」であると知り、そして、「言葉」こそが心を伝える最強のツールだからだ。
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