2020年10月13日火曜日

「神様はじめました」考察 言葉③ 巴衛の変化

  本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。

※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。


なぜ巴衛は「言葉」で愛情表現をしないのか?

以前の巴衛は徹底して「言葉」での愛情表現を怠ってきた。

それは彼が心を軽視しているからだ。


「心」を軽視する巴衛


このように「心」を軽視する人物像というのは一見奇異に映るが、それは「妖怪」の本質が、昔の人々が自然現象を説明するために「言葉」で説明した概念だからだ。

自然現象に意思はない。人間が自然現象のもたらす影響を見て、「怒りだ」「恵みだ」と勝手に意味づけしただけなのだ。

しかし、一連の困難を乗り越えて、巴衛が見出したのは「言葉」や「心」を大切にする「人間の強さ」である。だからこそ、巴衛は「心」や「言葉」を大切にするようになるのだ。


巴衛の変化①「愛する心」を知る


「悪羅王 お前を変えたのは何だ?」(第23巻)という巴衛の悪羅王に対する悪羅王の答えが、そのまま巴衛にも当てはまる。

巴衛を変えたのは、「人を愛した」ことである。

「愛」も「心」も知らない「荒ぶる火」が、奈々生の笑顔(お日様の日の光)に照らされて、壊れてほしくないと思い、大切な存在だと知り、それを「愛しい」という感情だと認識したことで、彼の心は「愛」を知る。負の感情のかたまり=ケガレの浄化が始まったのである。言うなれば、祀られそこなった荒ぶる自然現象が、ただしく祀られ始めたということである。

過去に奈々生が巴衛を助けた時、巴衛は怪我をし、夜の暗闇に息を潜めている状態。死への恐怖も感じており、まさにケガレの状態。巴衛を見つけて笑顔で駆け寄ってきた奈々生が輝いているのは、まさに彼女が日の光で巴衛の周りの闇を祓ったということの象徴である。

笑顔は神話の時代からの退魔術である。笑顔でいられる人というのはつまり、ケガレ=負の感情とは無縁ということなのだ。

現代の神使の巴衛も、「もう暗くて顔も見えない」(第17巻第100話)と言って、闇に沈んで「死」(雪路、悪羅王、巴衛自身)のケガレに囚われている。そして、奈々生が現れると日の光がさんさんと降り注ぐかのように巴衛の周囲が明るくなるのは、まさに奈々生が笑顔、日の光で巴衛のケガレを祓い、浄化しているのである。

第17巻第100話



巴衛の変化②「人間の強さ」を理解したこと


本作では人間の強さというものが実に多義的に描かれているが、巴衛が最終的に見出して納得した人間の強さというのは「変わること」である。

悪羅王の器だった霧仁が逝ってしまうのをみて巴衛が寂しさを感じるのは、自分がよく知っていた悪羅王の本質、すなわち心が変わってしまったことなのだ。

変わらないと思っていた悪羅王を変えたもの。それは「人を愛したこと」であり、言うなれば、「人間になった霧仁の心そのもの」である。変わらないものですら変えてしまう自由な心。それが人間の強さである。

怒り、悲しみ、憎しみといった負の感情=ケガレをも祓い清める力、涙を流したり許したり忘れたりして、最後に笑う力。

それこそが自然の脅威の前に生き延びるために編み出した人間の強さである。

人間の強さとは即ち環境の変化に柔軟に対応する心のしなやかさにあるのだ。

物覚えの悪い人間を馬鹿にする日常回は、まさに本質と器の問題である。忘れる力こそが人間の心の強さの一つなのだから。

巴衛が人間になることを選ぶのは、弱い人間である奈々生に付き合うためではない。

人間の強さの本質である心が、脅威であるはずの自分たち大自然をも変える力を持つことを知って、まさに自らもそのような心の強さを手に入れたいと願い、人間になることを選ぶのだ。


※ ネズミの嫁入り

このような考え方は昔から語り継がれている昔話にもうかがわれることができる。その1つがネズミの嫁入りである。

「太陽より雲が強い、雲より風が強い、風より壁が強い。そのお壁様に穴をあけてしまう、おら達ネズミが一番強い。」

自分の娘に強いお婿さんが欲しいと言って太陽を皮切りに声かけをするネズミの夫婦は最後に自分たちネズミが1番強いと知り、ネズミのお婿さんをもらうことにする。まさに大自然の脅威に最終的に打ち勝つのは人の心であると言うことを読み取ることができる。