本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
黄泉の闇夜は何を象徴するのか?(第22巻)
天岩戸神話では天照大御神が隠れたことにより闇に閉ざされ、世に穢れが蔓延する。日の光を取り戻すために天岩戸の前で行われた祭は、穢れを祓う神事である。祭事は即ち神事であり、日の光は穢れを祓う「清らかな」ものである。神代の頃、日の光を取り戻したことにより、穢れは浄化されたのだ。
悪羅王・夜鳥編において、イザナミ様が戦神の狼藉に怒って黄泉の入り口を閉めてしまった展開自体は、天照大御神が須佐之男命の狼藉に怒って天岩戸に閉じ籠ったエピソードと重なるのだけれど、イザナミ様=お日さまというのはしっくりこない。
本物語における「お日様」は奈々生である。奈々生の本質はお日様であり、奈々生の笑顔の本質は古来より闇夜の穢れを祓う「清らかさ」を体現するものであり、まさに奈々生の本質はその「笑顔」に表れている。
メタ的には、闇に包まれた黄泉の情景は、霧仁一派の狼藉により、寿命問題に直面し、お先真っ暗状態になった奈々生の心を投影するものである。
突如発生した寿命問題。鞍馬山で前を向いて進むよとは言ったものの、解決策も見えず、巴衛や瑞希にも打ち明けられない。巴衛は狐だし。まさにお先真っ暗。
後に奈々生は当時の自らを振り返って以下の通り言っている。
「元気だけがとりえの私があのときは本気で未来が見えなくなった」(第24巻)
まさに、霧仁一派の狼藉により、奈々生は心から「お日様」のように笑えなくなったのである。
奈々生は、イザナミに人の還る場所を見せてもらって、巴衛を元に戻す球根をもらい、ようやく先行きに見通しが立ち、光明が射したのだ。
霧仁、巴衛、瑞希がそれぞれ寒さに凍えてるのは、やっぱり彼らにとっての「お日様」である奈々生がいなくなることによる孤独感に惹起されるものだろう。
「君がいなくなってしまったら僕の世界は凍りついて二度と元には戻らない」(第22巻第130話)
したがって、事象として黄泉の入り口を閉めたのはイザナミ様だけれど、このとき隠れていたのは、奈々生の「お日様のような笑顔」だったのだ。
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寿命問題に直面した頃の奈々生の笑顔について
奈々生は一見、この頃も笑顔を見せている。
第22巻 |
黄泉へ出発する直前に奈々生が「行こう」と言って巴衛に見せた笑顔であるが、巴衛の表情は何とも読み取りがたい。何か引っかかるものを感じているようでもある。
これまでは奈々生が「お日様」のように笑う時はもう少し奈々生自身も明るくなるのでだが、このときは、微妙に薄暗い。
やはり、この頃の奈々生の笑顔は、周囲を気遣い、寿命問題を黙っていた彼女が「傷つけたくなくて取り繕った」ものなのである。
その後、巴衛と黄泉で再会した時の奈々生は巴衛から寿命問題を問われ、巴衛を気遣うために笑顔を見せる。
第22巻第131話
「そうみたい でも私ってほら図太いからそんな簡単に死なないと思うのよう だから 大丈夫 大丈夫!」(第22巻第131話)
この時も奈々生は上辺は笑っているのだが、奈々生が心から笑ったものではなく、巴衛を心配させないために取り繕ったものである。
しかし、奈々生の「お日様」のような笑顔を愛する巴衛は、奈々生が自分を頼らず取り繕った笑顔を見せられてなおのこと傷つくのである。
故に、その後の巴衛の一連の発言と奈々生のモノローグ((傷つけたくなくて取り繕ったことがこんなに巴衛を傷つけてる)(第22巻第131話))につながるのである。