※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
世界は自分の認識でできている
本作全般を通じて、巴衛は、次々と自分の知らない自分に気づいていく。
- 奈々生を好きなこと【出雲編】
- 人の痛みがわかること 【過去編】
- 知っていると思っていた奈々生のことも、全然わかっていなかったこと【十二鳥居編、沖縄修学旅行の日常回】
- 奈々生と共に生きたいと願っていること【犬鳴沼編】
- 知っていると思っていた悪羅王のことも、全然わかっていなかったこと【悪羅王・夜鳥編】
- そして、「変わらない」という既成概念にとらわれていた自分【悪羅王・夜鳥編】
世界は自分の認識でできている。
全ては認識することから始まる。
自分の心を言語化することによって説明することができるようになる。
言葉に力が宿るのは、言葉が頭の中のもやもやとした感覚を具象化する力を持っているからだ。まさに古代の人々がよくわからない自然現象を説明するために「妖怪」と言う概念を生み出したように。言葉で説明することによって私たちはさらにその先に進むことができる。
子どもに名前をつける時にあれこれ悩むのも、「名前」という言葉に親の想いや願い、周囲がその子を認識する手がかりを与えるからだ。また、周囲は子の名前を見て親の価値観や属性をもを判断する。
500年前の巴衛や悪羅王がさんざん蹂躙し、虫けらと馬鹿にしたように、「器」としては大自然の脅威の前にはかない人間である。しかし、弱くても助け合い、支え合い、想いを次の世代につないでいくという「人間の強さ」の根幹にあるのは、「心」であり、心を伝えるツールとしての「言葉」である。
人間は、自分の心を「言葉」で認識し、「言葉」で説明することによって、自分を知り、それを他者に伝えることができる。
「言霊」というのは別に不思議な力でもなければファンタジーの世界だけに存在するものでは無い。我々人間が自然の脅威の中で生き延び、次の世代へ命をつないでいく、想いをつないでいくために編み出した「言葉」そのものの持つ普遍的な力なのである。
言葉を軽視する巴衛
巴衛は自分の心にも他人の心にも無頓着だ。「自分の気持ちを言語化すること」が得意ではない。だから、巴衛はいつも他の誰かに指摘されて自分の心を自覚する。また、そもそも「心」または「言葉」を軽視しているから、奈々生への愛情表現は「言葉」にならず、奈々生の「心」に寄り添ったものにならない。
巴衛の奈々生に対する「熱い想い」も「心配」も「愛情」も、「言葉」で表現しない限り伝わりにくい。人間は「心」を言葉で表現するからだ。一連のすれ違いは言葉を軽視することにより生じたものである。
だから、「俺はいつも素直だ 愛情表現に抜かりはない」と思う巴衛は、奈々生とかみ合わないのだ。
第19巻 |
なぜ巴衛は言葉を軽視するのか
悪羅王・夜鳥編で描かれた、天まで燃え盛る炎の壁のような「火の山」は、まさに当時の巴衛の怒りに燃える「心」の情景を象徴するものである。巴衛の本質は「荒ぶる火」であり、古代の人々が恐れおののいた自然現象が「妖怪」という「言葉」で具象化されたものなのだ。
第23巻第136話 |
巴衛が言葉を軽視するのは、彼が自然現象の具象化されたものであるからだ。
自然は「言葉」を持たない。そもそも自然に「意思」はない。自然現象の様々な様子を見た人間が、神の怒り、恩寵、慈しみなど勝手に意味づけしているだけである。
人類が地上に誕生する前から地上には様々な自然現象が存在していた。古代の人々が自然現象を「神」と見出し、そのうち自分たちにとって恵みとなるものは和魂として崇め、自分たちにとって脅威となるものについては荒魂とみて祀りはじめた時に、「荒ぶる火」の神様が誕生した。その時に設定された設定がそのまま彼の本質として固定されていたのである。
中世に入り妖怪が絵巻物に描かれるようになった。中国など諸外国の影響もうけ、妖怪の形というのは実に面白おかしく描かれるようになる。あるものは人の姿に近い。しかし、器が人の姿に近づいたところで、本質は変わらない。人にとっての脅威となる自然現象である。
火の妖怪としての巴衛を見た場合に、その系譜はおそらく、「荒ぶる火」のうち「神様」として祀りそこなったものが人々の間で「妖怪」として具象化されたのだ。
奈々生と出会う前の500年前の巴衛が「愛」を知らない設定であるのも、昔の人たちがおそろしい自然現象をケガレとみて言葉で「妖怪」と説明し、具象化した時からの設定によるものだ。