本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
今回の考察内容
その前提で、この物語のテーマと、「また巴衛を連れて帰ってきてくれましたね」(第24巻)というミカゲの台詞の意味や、学校を浄化した時に俺では浄化できないという巴衛の台詞、瑞希がいつも奈々生にアイテムをもたらす意味、ミカゲさんの「また連れて帰ってきてくれましたね」発言の真意など、改めて本作品のテーマを考察したい。
「ケガレ」の思想
人々は、不幸や病気、怪我、死、罪、人にとって悪である事柄、さらに不浄性を含むものを「ケガレ」ととらえた。
例えば、「死」については、生命力が衰弱し、気が衰えた状態を穢れ(ケガレ)と捉えた。神道では「死」を穢れとし、家族は故人の死を受け入れ、葬儀は故人の穢れを祓う目的で営む。古来の人々は、「ケガレ」は正しく祀られることで「ハレ」に転換されると考えていた。
これは黄泉の国から帰ったイザナギが禊ぎをすることで穢れを清め、天照大御神が生まれたことにも伺われる。神の「ケガレ」は、イザナキによる禊ぎの祭祀で「ハレ」の天照大御神へと転換されたのである。
暴走する「火」はケガレの象徴
本来神道における「火」はケガレであった。だから「火」の巴衛は学校を浄化できなかったのだ。
これは、古来の人々が、火がそもそも持つ性質、すなわち「他を焼き無くしてしまう」という性質が、一般的なケガレの概念(「不浄」「不潔」)と同様、神や人間の結界、生活圏を脅かすと考え、おそれたから。
神話ではヒノカグツチは、制御不可能な火の威力でもってイザナミを死に至らせてしまう。
時に感情のままに暴走する巴衛は、人間に制御される前の荒ぶる「火」そのものである。
第3巻第16話 |
振り返れば、初期から奈々生は暴走する巴衛を鎮めてきた。後述するが、本作は、まさに、奈々生(お日様)が瑞希(水)の力を借りて、巴衛という荒ぶる「火」を鎮める物語でもあるのだ。
「水」は「浄め」の象徴
「火」が穢れであるのに対して、「水」は、あらゆる罪や穢れを浄化するものとされた。
この思想は、日本の神話において、イザナギが黄泉から帰ってきて川で禊ぎをして穢れ(イザナミの死にまつわるもの)を落としたことからも伺われる。
神社でもまず水で浄めてから参拝する。
「水」の本質をもつ瑞希はまさに聖神使なのだ。
また、瑞希は、奈々生に、時廻りの香炉、進化の水、羽衣というアイテムを持ってきてくれる。
第23巻 |
時廻りの香炉は過去にさかのぼって巴衛の穢れを祓うのに必要だった。羽衣は奈々生が火の山に登り、大国主と黒麿の対話の場であった鏡の中に入り込み、黒麿の穢れを祓うのに必要だった。そして、進化の水は、悪羅王の穢れを祓うのに必要であった。
すなわち、瑞希(水)が奈々生(神)に対し、穢れを祓うのに必要なアイテムを持ってきてくれたのだ。
これも、瑞希が本質的に「浄化」する「水」という性質に実に合致する。
瑞希は奈々生の心を支えるだけでなく、奈々生が穢れを祓う必須アイテムを持ってきてくれたという意味でも「水」としての役割を全うしたのである。
「火」と「水」で「神」になる
ここにも二人の対比構造がある。
瑞希=水=本質的に清らか
巴衛=火=ケガレ(古来よりおそれの対象という意味で)
古来火と水はいずれも生活に欠かせず、制御する必要があった。
そして、火と水という相反するものを内在して神になると考えた。
黄泉から帰ったイザナギが、「水」でいわば「火の神」によりもたらされたイザナミの死に伴う穢れを祓って、ハレの象徴たる天照大御神(日)が生まれたように、火と水で神になるのだ。
奈々生の本質は「お日様」
日の光で闇による穢れを祓う最強の神様が「お日様」。それが奈々生だ。
第24巻第138話 |
奈々生の名前は神様そのもの。
「古事記」には、伊邪那美命の死の様子に驚いて、黄泉の国から逃げる伊邪那岐命が、追手に対し、髪にさした櫛の歯や桃の実を投げて退散させたと記されている。桃は邪気を払い、私たちを守ってくれるという考えは桃の節句にも通じるものだ。
「桃」と「奈」で、鬼を祓う神事という意味になる。
「生」はそれ自体「生命」であり、生命の起源(水と火、即ちお日様=神)を想起させるし、清らかさという意味もある。
まさに、言霊思想による名前の重要性を体現するかのような命名なのだ。
火の穢れ(ケガレ)を祓う「浄化」の物語
以下では、奈々生が巴衛を浄化したといえるエピソードをまとめた。
学校の浄化(第6巻第34話)
第6巻第34話 |
土蜘蛛により穢れた学校を浄化した時も奈々生は笑顔で駆け寄って巴衛をも浄化する(第6巻第34話)。このとき式神の護の通る道が金色に光ってるのは、まさに「お日様」パワーの発露だからだ。
「もう汚れも瘴気もない ミカゲと初めて会った時以来だ とても晴れやかだ ああそうか これが浄化か」(第6巻第34話)
過去編:巴衛の呪いを浄化(第17巻第100話)
過去編で奈々生が巴衛の呪いを解く過程もまた、巴衛の穢れを祓う「浄化」である。
神話の世界では、「死」も穢れであり、呪いが発動した巴衛の姿は、「死」(雪路、悪羅王)という穢れに囚われていることを示す。
第17巻第100話冒頭で、巴衛は闇に沈んでいる。
第17巻第100話 |
「もう暗くて顔も見えない」(第17巻第100話)という巴衛の台詞は、まさに彼が闇に沈んで穢れの真っ只中にいることを意味してる。
そして、奈々生が現れると日の光がさんさんと降り注ぐかのように巴衛の周囲が明るくなるのは、まさに日の光で穢れを祓い、浄化しているのである。
第17巻第100話 |
物理的には巴衛にかけられた呪いはかんざしを渡すことで無効化したのだが、
その本質は、巴衛が喪失したと思っていた過去の想い人を取り戻し、心が生き返ったことにより、呪いが解けたのである。
奈々生はまさに自身の存在でもって巴衛の穢れを祓ったのだ。
最後の浄化@火の山「一時の感情に流されて自分を捨てないで」(第24巻第139話)
妖怪姿に戻り夜鳥と対峙する巴衛の表情は、恐ろしい形相である(第23巻第137話参照)。夜鳥に対する怒りのままに暴れる巴衛の姿は、燃え盛る火の山そのものである。まさに「一時の感情に流されて」いる状態である。
そして、巴衛は夜鳥の台詞に激高して夜鳥の首を跳ね飛ばし、夜鳥が悪羅王の器に同化する結果をもたらしてしまう。これも「一時の感情に流された」結果である。
さらに、巴衛は夜鳥の差し伸べる手をとろうとする。またもや「一時の感情に流されて」、今度は自分すら捨ててしまおうとするのである。
俺が悪羅王になれば俺が俺でなくなるかもしれない
人間にはなれないかもしれない
だがこのクソ野郎に悪羅王を渡さずに済むなら
その後から人間になる道を探せばいい
こいつが悪羅王の顔でのうのうと生きていくなど絶対に許せない……!! 許せるはずがない!!
どのみち先のことなどわからないのだ! この一歩が先の未来がどうなるかなどーー
(第24巻第139話)
直前に人間の強さの本質を知り、人間になると決めたはずなのに、一時の感情に流されて、その決断を揺らがせてしまうのである。まさに「火」が暴走している状態であり、古代の人々が「穢れ」として恐れた原初の「火」そのものである。
しかし、巴衛が歩もうとする瞬間、巴衛は奈々生の幻影を見る。
第24巻第139話 |
「一時の感情に流されて自分を捨てないで 道を見失わないで 私が愛してるのは貴方よ」(第24巻第139話) という奈々生の幻影を見て、巴衛は感情を制御することに成功し、自分を捨てないで済んだ。
第24巻第139話 |
これはつまり、奈々生(お日様)が、巴衛(火)の暴走を止め、巴衛の穢れを祓った、すなわち、浄化したということなのである。
よく見ればこのコマの描写も、奈々生はお日様のように巴衛を光で照らしているではないか。まさに巴衛に纏わりついた闇、ケガレを日の光で照らし、祓っているのである。
「火の山」が象徴するもの
(麓から見る火の山はまるで天まで届く炎の壁みたいだ)(第23巻第135話)
閉ざされた黄泉の闇が当時のお先真っ暗な奈々生の心を投映するものであったのと同様に、
悪羅王・夜鳥編で描かれた、天まで燃え盛る炎の壁のような「火の山」は、まさに当時の巴衛の怒りに燃える「心」の情景を象徴するものである。巴衛の本質は「荒ぶる火」であり、古代の人々が恐れおののいた自然現象が「妖怪」という「言葉」で具象化されたものなのだ。
第23巻第136話 |
火を制御する羽衣を身にまとう奈々生の姿は、女神でもあると同時に巴衛に手を差し伸べ、救済する象徴でもある。
悪羅王、黒麿、巴衛の三人はそれぞれにおいて奈々生のお日様パワーにより救済されたわけである。
言うなれば、本作は桃による鬼退治(=お日様パワーで穢れを祓う)お話しともいえるのであった。
「また巴衛を連れて帰ってきてくれましたね」(第24巻)巴衛(火)の穢れを祓う浄化の物語
火の山の後で、ミカゲ様の奈々生への「また巴衛を連れて帰ってきてくれましたね」(第24巻)という台詞は、奈々生が毎回巴衛の穢れを祓って浄化したことを指している。まさに、奈々生はいつも感情のままに動いて暴走する巴衛(火)を鎮めて(鎮火して)、現世に連れて帰ってきているのである。
第24巻 |
日々の生活において「火」の力はなくてはならないもの。一方で火は使い方を誤ると火傷や火事の原因となり、時には命を亡くす原因ともなる。故に、火の力が荒ぶらないよう祈念する「鎮火祭」をする。
「一時の感情に流されて自分を捨てないで」という言葉は、鎮火祭の発想でもある。
「火」という視点で見れば、巴衛は奈々生という神を見出だすことで、自らの感情(=火)に流されない(=鎮める、制御する)ことができるようになったということだ。
それが「神寄り」ともいえる。制御することが可能になった火は恐れの対象ではなくなった=ケガレではなくなったということだから。
「欲望のままに生きる」というのは、つまりは感情をコントロールできないということである。人間本位の見方をすれば、それは「子ども」ともいえるけれど、神話の世界ではまさに人々が「ケガレ」として恐れた「火」そのものなのだ。
この視点でみれば、本作は、巴衛が自分の中に荒ぶる感情(火)を制御できるようになるための、鎮火の物語ともいえるのだ。
このような視点で考えると、球根の花が咲く直前の、「俺も変わるのか?悪羅王のように変われるのか?」(第23巻第135話)という巴衛の台詞は、自分の中の火を制御できるようになりたい、つまり一時の感情に流されないでいたい、ということだったのかもしれない。
「君の方が私よりよっぽどあの「家」の主にふさわしい」(第1巻第1話)の真意とは
500年前はミカゲが、現代では奈々生が巴衛の穢れを浄化する。しかし、ミカゲですら巴衛の穢れを完全に祓うことはできなかったのだ。ミカゲは500年もの間、巴衛を助ける方法を模索していたのだから。
ミカゲは「お月様」であり、闇に惑う巴衛を導く光となったけれども、月の光は闇を完全に祓うことはしないのだ。
ミカゲですら祓い切れなかった巴衛の穢れを奈々生が完全に祓ったのは、「お日様」のようにさんさんとふりそぞく日の光で照らし、闇ごと穢れを祓ったということなのだ。
本作の第一話で、ミカゲは「君の方が私よりよっぽどあの「家」の主にふさわしい」と言って奈々生に土地神の印を譲るのだ。それは、つまり、お日様である奈々生が巴衛の穢れを祓うことを見越したが故の台詞なのだ。
第1巻第1話 |
奈々生と瑞希と巴衛:「火」と「水」で「神」になる
神話的には、瑞希と奈々生の心のあり方が似ているのは、二人が「水」と「お日様」という、穢れを祓う方の属性だったからと説明できる。
水は穢れを流し、お日様は闇そのものを照らすことで穢れを祓うのだ。
この三人の中では巴衛だけ異質なのも彼が「火」=穢れ側(恐れの対象という意味で)だから。
瑞希が巴衛を見張っていたのは、水が火を消す役割だから。
巴衛(火)の穢れを祓う為に、瑞希(水)が持ってきた時廻りの香炉で奈々生(神)が過去に飛び、お日様パワーで巴衛を救う。まさに、「火」と「水」で「日の神様」に近づいたのだ。
そして、巴衛が最終的に火を制御する能力(感情をコントロールする力)を得たからこそ、水による見守りがなくても大丈夫になり、巴衛は瑞希から離れられたのだ。
だから、瑞希が見守っていたのは実は奈々生ではなくて巴衛だったのだ。
もしくは奈々生の為に巴衛を見守っていたというべきか。
「ケガレ」は正しく祀られることで「ハレ」に転換されるという発想、あるいは、「火と水で神になる」という教えから考えると、やはり、奈々生(お日様)は瑞希(水)という支えがあったからこそ巴衛(火)との恋を続けられたのではないだろうか。
巴衛が感情を制御できなくて奈々生の心を無視した暴走をし、破滅的末路に陥る前に止めてあげていたのは瑞希だった。
「だけど僕にとっても奈々生ちゃんは大事なご主人様なんだ 君の好きにはさせないからね」「やっぱり奈々生ちゃんを邪な目でみてたんだね」(第18巻第103話)
巴衛が瑞希を邪魔に感じていたのは、水が火を消すから。つまり、瑞希が巴衛のお目付け役だったからだ。
でも、最終的に巴衛は、時に感情を制御できなくて暴走する自分を瑞希が止めてくれて、見守っていてくれていたことに気が付くのだ。それで、社を出る前の最後の夜の情景に繋がるのだ。
瑞希の支えがあったからこそ、巴衛と奈々生の恋は成就したともいえる。
「お前が金銭に憂いていれば俺が賄うだけのこと」(第24巻):制御できるようになった「火」のご利益とは
火之迦具土神は伊邪那美神(イザナミ)の御子だが、火の神であるために、生まれるときに母であるイザナミは火傷を負い死んでしまう。妻であるイザナミの死を嘆いた伊邪那岐神(イザナギ)は、腰にさしていた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜きはなち、火之迦具土神の首を斬り落とす。
このときに流れた血や火の神の身体から、また神々が生まれる。鉱山、農耕、工業などの生産にかかわる神々だ。
このため火之迦具土神は古来、金運や招福、あるいは防火の神として篤く信仰されている。
火の神様のご利益は、火に関すること、そして、火は物を生み出すことから、産業の神様としても崇められているし、金運・招福のご利益も有名だ。
「お前が金銭に憂いていれば俺が賄うだけのこと」(第24巻)
巴衛は物語の終盤、金の招き猫をもらったり、10年後も小さな工務店を2年で大きくし、ビジネスでも成功していることが伺われる。
火の神様のご利益や物を生み出すところに着眼すると、巴衛が物質面重視(器重視)設定なのも頷ける。これも巴衛にぴったりだ。
制御できるようになった「火」は、人々にご利益をもたらすものである。金運・仕事運はバッチリだ。
おそらく10年後の巴衛は営業職で働いている。営業職は人と関わる仕事である。巴衛は感情をコントロールできるようになったことで、仕事でも成功したのだ。
奈々生の家系は男運が悪く、奈々生の母も奈々生も、ダメ父のせいで経済的苦境に陥る。が、制御できるようになった「火」のおかげで、少なくとも、経済的には、奈々生の家系の「男運の悪さ」という呪いは解消されたようだ。
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いずれにしても、巴衛の成長物語を「子どもが大人になった」とみるにせよ、「暴走する火が制御可能になった」とみるにせよ、どう解釈しても、最終話でもうすっかり落ち着いた彼をみると、今後あんなに大暴れする姿を見ることは無さそうだ。
第20巻 |
拗ねて奈々生にしいたけを食べさせようとしていた巴衛は燃え盛る「火」そのものだった。あの可愛らしい狐様はもうどこにもいないのである。
感情をコントロールできるようになった巴衛は、制御可能な「火」として、奈々生を幸せにしていくのである。
まとめ
暴走する「火」は古来の人々がおそれた「ケガレ」であり、「水」の力を得て鎮めた。「火」と「水」で「神」になる。
制御できるようになった「火」は、人々にご利益をもたらすものだ。金運・仕事運もバッチリだ。
「ケガレ」は正しく祀られることで「ハレ」に転換されたのだ。
俯瞰すれば、本作は、奈々生(お日様)が瑞希(水)の助けを得て、巴衛(火)を鎮める物語だ。巴衛は暴走する「火」から制御可能な「火」となった。すなわち、一時の感情に流されないでいられるようになり、奈々生を幸せにするのである。