2020年10月9日金曜日

「神様はじめました」考察 「俺も変われるのか」(第23巻第135話) 「自由狐」になるために

  本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。

※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。

※ 単なる個人による感想・考察です。

※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。


今回の考察内容


巴衛の、「俺も変わるのか?」、「悪羅王のように変われるのか?」という台詞、そして、
奈々生の、「巴衛が人間を心から受け入れた証だよ」という台詞の真意について。

この一連の台詞の真意について、ようやくしっくりきた。

いわば、原初の「荒ぶる火」から、人の世における「制御可能な火」に「生まれ変わる」ということだったのだ。

「火の山」での闘いの意味とは


(麓から見る火の山はまるで天まで届く炎の壁みたいだ)(第23巻第135話)

「火の山」は原初の火、荒ぶる火、気性が激しく、まさに燃え盛る火のような、巴衛自身の心の中にある怒りの感情の象徴だ。

奈々生(お日様)が瑞希(水)の力を借りて今まで鎮めてきたけれど、最後の最後で巴衛が自分で自身の「荒ぶる火」を鎮めることができた。

だから巴衛は瑞希による見守りからも自立して、奈々生の手を取って人間社会へ入っていくことができるようになったのだ。


「俺も変われるのか」(第23巻第135話)とは



「俺も変わるのか?」、「悪羅王のように変われるのか?」
「変われるよ 巴衛がそう望めば何度だって生まれ変われる」
(第23巻第135話)

上記の一連の台詞の真意は、巴衛が「荒ぶる火」から「制御された火」、「鎮められた火」に「生まれ変わる」ということである。

「荒ぶる火」=怒り、死(ケガレ)

「鎮められた火」=様々な御利益をもたらすもの(ハレ)

裏返せば、巴衛自身も、「荒ぶる火」である自分、一時の感情に流されてしまいがちな自分に気が付いており、変わりたいと思っていたのだろう。

だって変わらない限り、常に誰か(水)に見張ってもらうか、ケガレ(=負の感情)にはまり自分を捨てる羽目になる。

「欲望のままに生きる」も「自由狐」も、彼が求めていたのは「自由」に生きることだということだ。

そして、「俺も変われるのか」という台詞の真意は、本当の意味で自由になりたかったということなのだ。それが自制心の獲得である。


「人間を受け入れる」(第23巻第136話)とは


奈々生を愛する

⇒奈々生という「花」を見つけ、愛し、「星」(人生のモチベーション)として見出す

⇒「荒ぶる火」から「制御された火」になって奈々生を幸せにする。

人間を愛する

⇒人間を受け入れる

⇒「荒ぶる火」から人間に「制御された火」になることを選ぶ。

ミカゲ社を出て人間社会で生きていく

⇒お月様に導かれる夜の世界からお日様に照らされる昼の世界へのお引越し

⇒「荒ぶる火」から「鎮められた火」となり、人間社会に御利益をもたらしていく



「器ではなくモノの本質をみる」(第11巻)とは


「荒ぶる火」(ケガレ)が「鎮められた火」(ハレ)になる道を選ぶために必要だったのが、「人間を受け入れる」ことだった。

人間の「器」は弱い

人間の「心」は強い

「心=本質」をみれば人間は強い

だから、「器ではなくモノの本質をみること」、「私欲に囚われず心の眼でモノを見ること」が必要だったのだ。


「人になってあいつは変わった」(第23巻第135話)


「荒ぶる火」であった巴衛が、「人を受け入れる」ことができたのは、「人の強さ」を理解したからだ。

本作では、「人間の強さ」が実に多義的に描かれているのだけれど、巴衛が最終的に納得した「人の強さ」とは「人は変わる」ことであった。

巴衛は、悪羅王も自分も、姿形が変わっても変わらないと思っていた。

「人は変わらない 俺の考えもな」(たとえ姿形が変わったところで同じことをくり返すだけ)(第23巻第133話)

しかし、悪羅王が亜子をかばって命を落としたことで、悪羅王が変わったことを知る(第23巻第134話)。

「悪羅王 お前を変えたのは何だ?」(第23巻第135話)

巴衛は、「変わらない」と思っていた悪羅王の「心」が変わったことに揺さぶられたのだ。

「変わりたい」と願えば、自らの本質、即ち「心」の持ちようですら変えることができることを知ったのだ。

それが「人の強さ」だ。


ミカゲ、イザナミ、そして巴衛自身が言ったように、本作では、妖怪は「変わらない」ものの象徴である。器も長寿で、心も同じ想いを何百年も抱えて生きる。逆に言えば、悲しみをいつまでも忘れられず、か弱くて、不便でもある。怒りや悲しみなどの負の感情を自分で昇華していかなければ、「心」が折れてしまう。

俯瞰すれば、変わらないということは、環境の変化に対応できないということでもある。

一方、人は「変わる」。怒りや悲しみなどの負の感情も、昇華する能力を持っている。そこに巴衛は「人の強さ」を見出したのだ。


「自由」の本質とは


巴衛の願いは第1巻の最初のエピソードで示されていた。「欲望のままに生きる」という言葉だ。

「欲望のままに生きる」も「自由狐」も、彼が求めていたのは「自由」に生きることだということだ。

すなわち彼の願いは「自由」に生きることだ。

巴衛自身が「自由に生きること」を望んでいるからこそ、悪羅王や奈々生に「好きなものになれ」(第23巻第137話)、「望む人生を歩け」(第24巻第143話)、「生きたいように生きろ」(第25巻最終話)という言葉をかけるのだ。

しかし、「自由」の本質は感情のままに暴れることではない。暴走する火は水で消火されてしまう。


巴:湧き出した水がうずを巻いて外へめぐる
衛:周りにいて中のものを守る

火の属性の巴衛が、「水」の意味を持つ漢字を使っているのは、防火対象だということだ。
神社に三つ巴紋をおくのは、神社の周りに「水」を張って「火」から神を守る為。
巴衛自身の制御しきれない「火」から神様や人々を守るための名前なのだ。

水で防火するという「巴衛」の名前の意味からも伺われるが、「荒ぶる火」は防火・消火対象である。

いつも瑞希(水)の助けを得て浄化される(=鎮火される)のも、「神と神使の契約」によって自身の欲望を抑えられるのも、神の言霊縛りによって制御されるのも、彼の不自由さの表れだ。

「自由」に生きているつもりでも、荒ぶる度に「水」をかけられ浄化され、暴走しないか保護者たちに見守り続けられているようでは真に自由とは言えない。

巴衛が瑞希を邪魔に思っていたのは、奈々生を独占したいということもさることながら、「水」による見張りを鬱陶しく思っていたのである。

つまり、兄のような保護者のような存在に対する、荒ぶる反抗期の少年の姿である。

神議中の出雲で、「神使の契約」がない状態では自制がきかないという巴衛は、本質をまだ知らない。「神と神使の契約」で抑制されているのは彼の欲望であり、「自由意志」である。

第1巻で言霊縛りを疎んじていた割に、「神使の契約」を受け入れている彼の姿は、真の「自由」の意味を知らない。あるいは、縛られること状態にむしろ甘んじているのである。つまりはミカゲや奈々生に甘えているのである。やはり荒ぶる反抗期の少年の姿である。


第23巻第135話

(ずっと一緒にいた 奴のことなら何でも知ってると思っていた そして俺自身のことも…でも違ったんだ)(第23巻第135話)

自分自身のことを知らなかったという台詞に伺われるのは、自制心の欠如によりもたらされる、自身の不自由なあり方に気が付いたということなのだ。


「自由」の本質は感情のままに暴れることではない。暴走する火は水で消火されてしまう。


巴衛は自らの「火」を制御することで、水の見守りから自立することが可能となり、真の自由を獲得した。

自らの「火」、即ち、怒りなどの負の感情を制御し、自律することでこそ、大人の庇護と監視から離れ、真に「自由」となれるのだ。

すなわち「制御された火」こそが真に自由であり、最終的に巴衛は名実ともに「自由狐」となったのだ。

その意味で、最後の決戦を経て、巴衛は「変わった」のである。

これが神話的に解釈した場合の本作のテーマの根幹であろう。

第24巻第142話


「今は神と神使の契約だがそんなもの早くなくなればいいと俺は思っている」(第24巻第142話)


これも巴衛が本質に気が付いたことの表れである。

そもそも、「神と神使の契約」という契約による暗示をうけて欲望を抑えるという状態も、精神的に囚われた状態であり、精神の自由の制約である。

だからこそ、自制心を獲得した巴衛は、奈々生と「ずっと一緒の約束」を「神と神使の契約」から、相互の自由意志に基づいた「結婚」にアップデートするのだ。


神話から学ぶ生き方の智慧


神話から学ぶ生き方の智慧として、

生きていく為には、自分の心と向き合って、怒り、悲しみ、おそれなど負の感情を自分自身で昇華できるようになること

=ケガレをハレに変えること

そして人間はその能力を既に持っている。

それが、涙を流したり、悼んだり、悲しんだり、忘れたり、許すこと。

だってそういうふうにでもしなければ「心」が折れてしまうくらい過酷な環境に、おそらく日本人の祖先はおかれていたのだ。

ありとあらゆる自然災害に見舞われ続けた日本人らしい、生き延びる智慧なのだ。