2020年10月12日月曜日

「神様はじめました」考察 名前①「桃園奈々生」「巴衛」「瑞希」 神話から読み解く登場人物の名前の意味と役割 桃の鬼退治 

 本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。


今回の考察内容


日本の神話に表れる古代の人々の思想などを参考に、主要登場人物の名前に込められた意味と作中で果たした役割を整理してみたい。


登場人物の属性・役割


桃園奈々生⇒「お日様」邪気をはらう清らかなもの 
⇒ 日の光で闇から生まれるケガレをはらう。
⇒ 作中、そのお日様のような笑顔でケガレを祓い、浄化のために飛び回る。

瑞希⇒「水」⇒浄化するもの 
⇒ 作中、奈々生に浄化のアイテムを提供する。巴衛(火)の暴走を止める。水は水でも、類まれな「神聖な水」である。いつも瑞希が奈々生にお浄めに必要な重要アイテムを持ってくるのは、彼の存在そのものが人類最強のお浄めアイテムたる「水」だから。

巴衛⇒「荒ぶる火」⇒制御できない火は古来の人々が「ケガレ」としておそれたもの。鎮められた火は人々にご利益(ごりやく)をもたらすもの
⇒ 作中、感情に任せて暴走したり、「死」の影に囚われるのは「ケガレ」の象徴である。奈々生がその都度巴衛を鎮めたり、浄化して救うのは、「お日様」による「ケガレ」の祓いである。最終的にコントロールできるようになって、奈々生を幸せにする。


悪羅王⇒「荒れ狂う嵐」⇒ 破壊衝動のままに数多の「死」をもたらす悪羅王はケガレそのもの。
⇒ 「霧仁」としての彼は、奈々生の精気を奪い、お日様の光を遮る「霧」。
⇒ 奈々生(お日様)が笑顔(日の光)で照らし(=浄化)、光のほうへ生まれ変わる(「綺羅羅」(きらら))。霧に日の光が当たるとキラキラひかるように。


夜鳥⇒人々に穢れ(ケガレ)を蔓延させる「夜」の「闇」そのもの。
⇒ 作中、穢れの根本原因であるため、最終的に消えた。

黒麿⇒闇により光を失った月
⇒ 「対」をとる黒麿は「鏡」であり即ち「月」である。過去編では奈々生を導く「月の光」。奈々生(お日様)により救われたのは、闇に閉ざされた月が再び日の光に照らされ、輝きを取り戻したということだ。

ミカゲ⇒「お月様」
⇒ 作中、月の光のように子どもたちを導く。月光は闇を祓うのではなく導くものであるがゆえに、巴衛のケガレを祓い切ることはできず、奈々生(お日様)に委ねた。

本作は、奈々生(「お日様」)がお日様みたいな笑顔(日の光)で、それぞれの穢れを祓い、浄化する物語なのだ。

「桃太郎の鬼退治」

つまり、桃の力で穢れを祓うという神話の時代の人々の思想を体現したものである。

元々は悪羅王がラスボス予定だったらしいので、それだとわかりやすいけれど途中でラスボスが夜鳥に変わった。

それでも奈々生が黒麿の心を救済して最終的に夜鳥による穢れを祓ったという意味では、やっぱり桃パワーによる鬼(穢れの象徴)祓いなのだ。

夜鳥の最期は様々な意味があるすが、穢れを祓う神事という観点からも必要だったのだ。



登場人物の名前の意味と役割


「白札に字を書くようにこの式神に名前を付けなさい それが式神の能力になりアンタの望みを代行する」(第6巻第34話)


古来、名づけにも言霊思想があり、登場人物の名前は、その属性であったり、役割を表している。


「巴衛」:制御できない火から守る


「巴」という漢字は、湧き出した水がうずを巻いて外へめぐる意味があって、神社にたまにある三つ巴紋は防火の意味でつけられている。

「衛」は、周りにいて中のものを守るという意味。

神社に三つ巴紋をおくのは、神社の周りに「水」を張って「火」から神を守る意味がある。

つまり巴衛自身の制御しきれない「火」から何か(神様や人々)を守るためにつけられた名前である。または、巴衛のテーマが自身の「火」をコントロールすることにあることを示すものである。

  1. 巴(湧き出した水がうずを巻いて外へめぐる)
  2. 衛(周りにいて中のものを守る)

第10巻第59話


【神話のエピソード】日本の神話では、火の神である火之迦具土神(ヒノカグツチ)は、伊邪那美神(イザナミ)の御子だが、火の神であるために、生まれるときに母であるイザナミは火傷を負い死んでしまう。制御不可能な火による親殺し事件である。妻であるイザナミの死を嘆いた伊邪那岐神(イザナギ)は、腰にさしていた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜きはなち、火之迦具土神(ヒノカグツチ)の首を斬り落としてしまう。

火の神の生まれにまつわるエピソードはなんとも猛烈で激しい。



「桃園奈々生」:邪気をはらう清らかなもの

奈々生の名前は神様そのもの。

桃は邪気を払い、私たちを守ってくれる。この考えは桃の節句にも通じるものだ。

「桃」と「奈」で、鬼を祓う神事という意味になる。

「生」はそれ自体「生命」であり、生命の起源(水と火、即ちお日様=神)を想起させるし、清らかさという意味もある。「死」という穢れの反対であり、清らかなものである。


まさに、言霊思想による名前の重要性を体現するかのような命名なのだ。

  1. 桃(古来より邪気を払う果物)
  2. 奈(神事を行うための果樹)
  3. 生(清らかなもの)

作中、「桃丹」という万能薬が出てくるが、これも、「桃」で病気やケガというケガレをはらう意味が込められている。

また、奈々生の式神「護」が猿であるのも、「桃太郎」の家来が猿だったからだ。

※ 桃太郎のお供が「犬、猿、キジ」だった理由は、鬼門に対して裏鬼門に位置する十二支が「戌(犬)」「申(猿)」「酉(鳥)」だったからだとされている。


第22巻第131話


【神話のエピソード】神話には、伊邪那美命(イザナミ)の死の様子に驚いて、黄泉の国(死者の国)から逃げる伊邪那岐命(イザナギ)が、追手に対し、髪にさした櫛の歯や桃の実を投げて退散させたと記されている。


「瑞希」:類まれなる神聖な水


「瑞」は、お祈りされた神聖な玉。めでたいしるし。みずみずしい。ヘンの「王」は玉を、ツクリの「耑」は髪をなびかせる神職の人を表す。組み合わせて「お祈りされた神聖な玉」を指す。「瑞」がもつ「瑞々しい」の意味からは「生き生きとして艶やか」「フレッシュで若々しい」などのイメージがある。

「希」は、まれ。めったに。こいねがう。

  1. 瑞(神聖なもの)
  2. 希(めったにないもの)


第3巻第16話

「火」が穢れであるのに対して、「水」は、あらゆる罪や穢れを浄化するものとされた。

神社の手水舎は、参拝者が「水」で穢れを浄めるためのものだ。

作中でも、進化の水や人の還る場所は「水」であるのは水が生命の根源だからだ。「死」というケガレの反対という意味でも「生」の源である「水」は清らかなものである。

【神話のエピソード】日本の神話において、イザナギが黄泉(死者の国)から帰ってきて川で禊ぎをして穢れ(「死」によるケガレ)を落とす。その際、天照大御神が生まれる。ケガレが水によりハレに転じたのである。


※ 名づけにおける言霊思想とは


言霊とは言葉のもつ不思議な霊力。発せられた言葉には霊力が宿り、その言葉を発すると言葉通りのことが実現する。良い祝福の言葉を発すれば良いことが起き、悪い呪いの言葉を発すれば悪いことが起きる。言葉は単なる伝達手段だけではなく、発せられた言葉に物事を実現させる霊力がある。

命名も、言霊思想がある。子供が生まれ、人の親となる。子供の幸福を心底願って命名する。暗い、不吉な、不幸を連想するような名前は選ばない。子供が幸福になるように、明るい響きのある、縁起のよい、名前を選んで命名する。その名前を背負って生きていく子供が、言霊の力で名前に見合った人間になると願って命名するのだ。


※ 太陽と月

月は明るく光っているが、自分で光を出して輝いているわけではない。太陽は自分で光を出して輝いているが、月はその、太陽の光を反射して輝いている。

新月とは、地球から見て月と太陽の方向が同じになり、月から反射した太陽の光が地球に届かないため、地球から月が見えない状態である。これに対して、月食とは地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象のことである。 


※ 「ケガレ」の思想


古代の日本人は、「ケガレ」または「不浄」という観念を持っていた。これらは単なる「汚れ」や「きたなさ」という意味をはるかに越えた内容を含む価値を示すものだ。

人々は、不幸や病気、怪我、死、罪、人にとって悪である事柄、さらに不浄性を含むものを「ケガレ」ととらえた。

例えば、「死」については、生命力が衰弱し、気が衰えた状態を穢れ(ケガレ)と捉えた。神道では「死」を穢れとし、家族は故人の死を受け入れ、葬儀は故人の穢れを祓う目的で営む。古来の人々は、「ケガレ」は正しく祀られることで「ハレ」に転換されると考えていた。

これは黄泉の国から帰ったイザナギが禊ぎをすることで穢れを清め、天照大御神が生まれたことにも伺われる。神の「ケガレ」は、イザナキによる禊ぎの祭祀で「ハレ」の天照大御神へと転換されたのである。