本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
沖縄修学旅行編で、「本当の俺は空を飛ぶのが好きなんだ」(第19巻第109話)という鞍馬の台詞があった。
鞍馬の本質が「飛ぶこと」なら他の者たちの本質はなんだろうか?
巴衛の本質は「火」
巴衛の本質は、「火」である。
強力な狐火を操る。
気性が激しい。
「熱い想い」を秘めている。
欲望のまま生きる。
巴衛はミカゲ社において家事全般を担当しているが、火は人間生活の根源であり、生活必需品であることとも親和する。
ちなみに、神話ではイザナミは火の神を生んだことがきっかけで死んでしまう。「本質」の体現者であるイザナミ様は「器」に囚われる巴衛が気に喰わないのだが(第22巻)、そもそも、「器と本質」問題を抜きにしても「火」の属性である巴衛は気に喰わないのかもしれない。
第10巻第59話 |
【神話のエピソード】火の神である火之迦具土神(ヒノカグツチ)は、伊邪那美神(イザナミ)の御子だが、火の神であるために、生まれるときに母であるイザナミは火傷を負い死んでしまう。制御不可能な火による親殺し事件である。妻であるイザナミの死を嘆いた伊邪那岐神(イザナギ)は、腰にさしていた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜きはなち、火之迦具土神(ヒノカグツチ)の首を斬り落としてしまう。
火の神の生まれにまつわるエピソードはなんとも猛烈で激しい。
このこともまた気性の激しい巴衛を想起させる。
瑞希の本質は「水」
瑞希の本質は「水」である。
瑞希は元々は水神である夜ノ森水波姫(ヨノモリミツハノヒメ)(ヨノモリ社のヨノモリ様)の神使として生まれた。「出雲の大国主様から賜った由緒正しき神獣」である。そして、ヨノモリ様は、「人に望まれて川の守護神」となった水神である(第14巻第82話)。
水は、荒ぶる時は人を、村を押し流すほどの力強さを持ち、穏やかな時はたゆたう者を優しく受け止める存在である。
渇いた時に喉を潤すものであり、心の渇きを癒してくれる存在である。
まさに瑞希は「水」そのものではないか。
第3巻第16話 |
瑞希は「水」であり、得意技はお酒造り。お酒造りは昔の日本では神事として行われてきた。
農耕民族にとって水は最も重要なものの一つ。水は命の源であり、心身の穢れを洗い流し、気持ちを新たにする力があるとされる。そのため水神の神社は縁結びをご利益とするものが多い。ヨノモリ様のモデルと思われる、水波能女神(みずはのめのかみ)のご利益は、祈雨、止雨、治水、商売繁昌、子宝、安産である。
また、水神の象徴として河童、蛇、龍などがあり、これらは水神の神使とされたり、神そのものだったりする。
「火」と「水」
巴衛の気性の激しさも、瑞希ののらりくらりしたたおやかさも、火と水の違いである。
それぞれの得意技も、巴衛は火を使う料理であるのに対し、瑞希は水を使ったお酒づくりである。
やはり、巴衛は「火」、瑞希は「水」なのだ。
昔の神道では火と水が重要で
火(か)
水(み)
で「かみ」
と呼んだらしい。
やはり、巴衛(火)と瑞希(水)は奈々生(神)にとってマストな存在なのだ。
私見では、奈々生にとっては巴衛も瑞希も必要で、奈々生が最終的に社に戻るのは瑞希が理由だと思っていたけれど、そんな彼らの関係性は、神様ワールド的にも説明がつくのである。
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いろいろな切り口があるけれど、一つ言えるのは奈々生、巴衛、瑞希の三人セットが物語の展開に重要だということ。
瑞希がいることによって、様々なバランスがとれ、物語のメッセージも伝わり易くなる。
巴衛の三つ巴紋は妖怪、神使、人間の三つだと思うけれど、この三人も表すのかもしれない。
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奈々生の周りは、瑞希だけでなく、沼皇女、錦、ウナリ、龍王と亀姫夫妻など水属性の妖が多い。離れていても想うだけで心の温かくなれるタイプの妖たち。火の属性の妖の出番が少ないのは、巴衛が単独で強烈な存在感を放っているからだろうか。
鞍馬の本質は「風」
「空を飛ぶこと」が好きで、かまいたちを起こす鞍馬は、「風」なのだろう。
風のように人間界も妖の世界も自由にかけ巡るのである。
「天狗も御山も…俺にとって本質の部分だから…そーゆーのは無闇に人間には知られたくない…」(第19巻第109話)
第19巻第109話 |
「人間界ってのは俺にとって海の中みたいなものかもしれない 水の中で生きてくと決めてエラ呼吸を覚えても 魚の真似が上手くなっても 本当の俺は空を飛ぶのが好きなんだ」(第19巻第109話)
悪羅王は「嵐」、霧仁は「霧」
巴衛=火、瑞希=水、鞍馬=風、とすれば、霧仁(悪羅王)は何の属性にあたるのか?
悪羅王は「嵐」である。悪羅王が人の体に乗り移った「霧仁」は、「霧」である。「仁」はここでは「人体」という意味である。
「嵐」が鎮められて「霧」になり(霧仁)、最後に「日の光」に照らされてキラキラと輝く存在=光の属性(綺羅羅)に転じたということだ。
第15巻第88話 |
「これが嵐の幕開け」(第15巻第88話)
500年前に奈々生と悪羅王が会った時のモノローグである。
言うなれば沖縄の嵐の遠因、「嵐の幕開け」は500年前から。あの時点で嵐の吹きすさぶ沖縄の展開も決まっていたのだろう。
「嵐」は世をかき乱すということだ。悪羅王の本質は「嵐」なのだ。
「嵐」の沖縄は、あれすさぶ霧仁の心を象徴するものだ。
晴れ渡った沖縄の空は、ウナリ自身もさることながら、「嵐」の化身である霧仁が、奈々生の精気を得ることで、「嵐がおさまった」、つまり、「鎮められた嵐」となったことを象徴するものだ。
だから、沖縄後の霧仁の心は落ち着いていたのだ。物理的には奈々生に精気を分けてもらって体が回復したからだ。しかし、本質を見れば、奈々生によって救われたことで、心もまた浄化されたのである。
しかし、一方で、精気を奪われた奈々生は寿命が縮まり、お先真っ暗状態になる。それが闇に沈む黄泉の情景は、お先真っ暗な奈々生の心中を象徴するものである。
濃い霧は日の光を遮る。つまり、霧仁は精気を奪うことにより、奈々生の寿命を縮め、ひいては奈々生のお日様のような笑顔を隠したのである。
お日様を隠すという意味で、まだ、霧仁は完全には浄化されていない。そもそも、霧仁の肉体自体、死体であり、「死」はケガレである。
最終的に彼が浄化されたのは、黄泉で亜子を救い、奈々生に奪った精気を返した時である。このとき、霧仁は、亜子・奈々生が「大切な存在」であることを知り、「本質」を悟った霧仁は真実浄化され、光の属性である綺羅羅に転生するのだ。
スサノオの神名の「スサ」は「荒れすさぶ」。「嵐の神」「暴風雨の神」である。
霧仁一派の狼藉により奈々生のお日様のような笑顔を隠したという意味でも、霧仁の役回りはスサノオである。
奈々生にいろいろと迷惑をかける彼の姿は、天照大御神に対して様々な迷惑をかけたスサノオの姿と重なる。
いわば、末っ子による「姉に対する行き過ぎた甘え」と言えなくもない。
※神話のスサノオは天照大神の弟神である。
※ 当初は「土」とも考えた。悪羅王の得意技は、不死身の身体と破壊衝動である。山に埋まっていたり、黄泉の土で石板鏡作ったり、土に縁がありそうだ。また、砂山を作っては壊し、作っては壊しを繰り返す幼子を想起させる。砂場遊びしてるイメージである。壊れたらまた泥こねて継ぎ足しで再生しているのだ。巴衛を火と考えると、火と土は相性もよい。火の神様は陶器の神としても祀られている。陶器は土をこねて火で焼き上げて作るからだ。火と土は相性がよい。少なくとも水と火のような相反する関係にはない。しかし、現在は、悪羅王は「嵐」と考えている。
奈々生の本質は「お日様」
奈々生の本質は、ズバリ「お日様」であろう。本作では「神寄り」の瑞希は「本質」を読者に教える存在であり、瑞希の台詞によれば奈々生は「お日様」なのだ。
(ヨノモリ様 僕はもう孤独じゃありません 僕の心の中にはたくさんのひとが住んでいて 何より奈々生ちゃんが お日様のように僕の心を温めてくれるから)
(だからいつまでも笑っていて お日さまみたいに…)
(第22巻第130話)
第22巻第130話 |
月はやたらと出てくるのに太陽は出てこないと思ったら、奈々生自身が「お日様」だったのだ。
奈々生は星は星でも「お日様」なのだ。
妖怪への向き合い方も北風と太陽のおひさまを想起させる。
「お日様」ポジションだから「みんなの奈々生」なのだ。
「奈々生さんはここにいるみんなにとってかけがえのない存在なのですからね」(第18巻第103話)
みんなを照らす存在であり、みんなから必要とされる存在。
闇に沈んだ黄泉を照らしたのも奈々生である(第22巻第131話)。
第22巻第131話 |
神話の時代、天照大御神が天岩戸に閉じこもった時に祭事をして笑い歌い踊ったことから祭事は穢れを払う最大の神事とされてきた。
笑って、歌って、踊れる状態は清らかな状態。
穢れている時は笑えない、歌えない、踊れない。
つまり、清らかな人とはいつでも笑って、歌って、踊れる人のことである。
まさに、奈々生そのものではないか。
巴衛が奈々生の「お日様」のような笑顔に見出していたのは、まさに闇のもたらす穢れを払う日の光のような「清らかさ」なのだ。
(詳細は、「神様はじめました」考察 巴衛は奈々生の笑顔に何を見出していたのか?)
土蜘蛛により穢れた学校を浄化した時も奈々生は笑顔で駆け寄って巴衛をも浄化する(第6巻第34話)。このとき式神の護の通る道が金色に光ってるのは、まさに「お日様」パワーの発露だからだ。
第6巻第34話 |
星は星でも奈々生は「お日様」である。かつて巴衛は奈々生を「清らかで可愛らしい凛とした花」(第11巻)とみたが、その「本質」をみれば、「お日様」のような奈々生の笑顔は闇のもたらす穢れを払う「清らかな」日の光の体現なのだ。
さすがに奈々生が天照大御神とは言わない。そもそも奈々生は地上の神だ。天界の神様とはレイヤーが違う筈だ。とはいえ、奈々生がおひさまポジションだからこそ、伊勢神宮は登場しなかったのだろう。出雲との関係抜きにしても。
ミカゲの本質は「お月様」
ミカゲの本質は「お月様」だ。闇夜を照らす優しい月の光は、暗い道を手探りで惑う「子どもたち」を導くミカゲ様に似ている。迷える「子どもたち」に対するミカゲ様のまなざしは、時に厳しく、時に優しく、いつも愛情に溢れている。
(詳細は、「神様はじめました」考察 お月見 ミカゲ様の正体は? なぜミカゲ様や瑞希は巴衛とお月見したかったのか?)
ミカゲ様と奈々生の使う技が同じ「退魔結界」、すなわち、「浄化」であるが、それは、二人とも「光」で闇を照らす系の神様だからだ。お月様とお日様。
ちなみに、原作漫画では、ミカゲ様は夜に登場することが多い。日中活動していることもあるけれど。やはり、ミカゲ様はお月様の神様なのだ。闇夜を照らす光である。
メタ的には、最終的に、巴衛はお月様(ミカゲ)に導かれる夜の世界(妖)から、おひさま(奈々生)に照らされる昼の世界(人)に引っ越したとも言えるのだ。