本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
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ミカゲの懐鏡
ミカゲの懐鏡は、いわば巴衛のゆりかごである。巴衛が拠り所としてきた存在。
ミカゲの懐鏡に巴衛が入っていたのは、記憶を取り戻して苦しむ巴衛が、ミカゲにすがりついたことの象徴である。
この時点では、まだ、巴衛はミカゲに最後の拠り所を求めていたのだ。
懐鏡がその後作品中でてこなくなったのは、巴衛がミカゲという保護者から自立し、人生の伴侶たる奈々生を自らの精神的指針、すなわち「星」と見出して生きていくことの象徴でもある。いわば、「親離れ」したのだ。
かんざし
事象としては解呪アイテムだが、奈々生と巴衛、二人の関係性にとって重要な意味をもつかんざし。
かんざしを探して掘り起こす奈々生は、いつも巴衛を捜して手を差し伸べ続け、助けようとする彼女のあり方そのものの象徴である。
現代で奈々生が掘り起こしたかんざしがボロボロなのは、その当時の、呪いが再発動して精神状態がボロボロな巴衛の心の象徴でもある。
奈々生から巴衛へ古いかんざしを手渡す行為は、過去と現在が繋がったことを意味する。すなわち、巴衛が過去に愛した女が奈々生であったと知ることだ。
巴衛が奈々生に対して新しいかんざしを渡したことは、巴衛が奈々生に対して、新たな関係性を構築しようという申し出だ。「作り直した」というところがポイント。(詳細は別記事。「神様はじめました」考察 「当然だ」 再びかんざしを渡した行為の意味とは?(第17巻第101話))
巴衛が再び渡したかんざしは「作り直した」もの、つまり、埋まっていたかんざしとは別の、新しいかんざしである。それは、永遠に失ったと思っていた500年前の「想い人」が実は生きて目の前にいるとわかり、巴衛の心が生き返ったことでもあるし、二人が過去を清算し、これから新しい関係性を築いていくということの象徴でもある。
その後奈々生がかんざしを身につけるシーンはない。それは、このかんざしは「ずっと一緒にいる約束」の証という位置づけだからだ。重要局面でのみ登場する。ただし、時折、巴衛の回想シーンで、桜舞う中で奈々生がかんざしを渡す回想シーンが出てくる。巴衛の恋が500年越しの恋ということの象徴である。
「手を取る」こと
「巴衛が私ではなく君の手を取るように 巴衛に君を選ばせてあげたいんだ」(第8巻)
「ミカゲさんにべったりで私の手なんか取らない」(第14巻)
記憶を取り戻して呪いに苦しむ巴衛は、奈々生を見た瞬間、「雪路…」とつぶやき、「見るな」と言って、奈々生の手を振り払う。
これは、二人の関係性がまた一旦壊れたことの象徴でもある。この後、巴衛は再会するまで奈々生の名前を呼ばない。
その後、再会するまで巴衛はミカゲにすがり、懐鏡のなかをたゆたうが、奈々生を求めたいという自分の心と向き合わない。
しかし、「求めたくない」は求めたいという願いの裏返しだ。
自分の手を見ているのはその象徴。本当は手を取りたいと思っているのだ。
第17巻第100話 |
出てきてかんざしをもつ彼女の手を取ったということは、再び彼女との関係を構築するということだ。
笹餅
笹餅は奈々生が母から承継した無形的遺産。
本作で、食べものをあげることは愛情表現である。
十二鳥居編で笹餅をほおばる奈々生の姿は、母が奈々生に愛情を注ぎ、また、奈々生が母の愛情を受けとめていることの証である。
過去で、奈々生は笹餅を巴衛に食べさせる。
その後巴衛が笹餅を食べ続ける。
過去での奈々生との邂逅はわずか数日間のものであった。過去の巴衛は、笹餅を食べ、かんざしを眺めながら、奈々生に想いを馳せていたのであろう。
かんざしも最終的には黒麿に渡してしまうので、奈々生と巴衛をつなぐ唯一残ったアイテムが「笹餅」だったのである。
記憶を忘れても、奈々生と過ごした思い出は忘れたくないという想いがあったから、笹餅を食べ続けたのかもしれない。
あるいは、あの頃のことはつらい記憶になってしまったけど、ななみとの思い出だけはキラキラ輝くものだったから、食べ続けたということかもしれない。嫌な記憶にまつわるものだったら、覚えてなくても食べたくないだろうから。
現代で巴衛がはじめて奈々生に「ありがとう」と言ったのは、鳴神編で子どもの姿にされて発熱中の巴衛に、奈々生が笹餅を作った時である。
名前
名前は親から子どもへ与える最初のプレゼントである。
食べさせることと同様、原初的愛情表現だ。
誰かの名前をきちんと名前で呼んであげることは愛情表現の基本である。
奈々生がみんなを守りたいという愛を込めて名づけた式神「護」は、まさにその名にふさわしい働きを見せるが、本作で名前がいかに重要な意味をもつかということも示す。
奈々生が500年前に出会った夜ノ森水波姫(ヨノモリミツハノヒメ。後のヨノモリ様)は、まず奈々生の名前をきく(第14巻第82話)。名前の持つ重要性を知っているからだ。
過去では巴衛は奈々生を「雪路」と呼ぶ。事象としては奈々生が雪路のふりをしていたからなのだが。
名前を呼んでもらえないことで、奈々生は過去の巴衛の愛情が自分ではなく雪路に向いていると感じるし、巴衛の愛情をなかなか受け止められないのだ。
再会した巴衛にまず奈々生が尋ねるのが自分の名前である。
これに対して「奈々生だ」と伝えるのは、巴衛が愛したのは奈々生だということの証である。