本記事は、『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊)を考察するものです。
※ 作品の登場人物や内容に言及があります。ネタバレを含みます。原作漫画を未読の方は本記事を読まないことをお勧めします。
※ 単なる個人による感想・考察です。
※ 画像は全て 『神様はじめました』(鈴木ジュリエッタ著、白泉社刊) より引用させていただき、個別に巻・話を表示しております。
夜鳥はなぜ巴衛を取り込もうとするのか?
毛玉本人は巴衛を嫌っていた筈なのに、なぜ、巴衛を取り込もうとするのか?
実は、巴衛を取り込むことこそ、闇夜の化身たる夜鳥の最終目標だったのである。
前回の記事(「神様はじめました」考察 夜鳥の企み① 悪羅王復活計画の本質とは)で論じたように、夜鳥の本質は、太古の昔、日の光を隠し、数多のケガレの元凶となった「闇夜」である。つまり、人々の恐怖心、恐れなどの負の感情を増幅させるもの。いわば触媒。
夜鳥の悪羅王復活計画の本質は、「荒れすさぶ嵐」の化身たる悪羅王をケガレ側、闇側に留めおこうとする「闇夜」の企みである。もっとも、霧仁の本質=心は救済され、結局光の方へ転じる。
悪羅王を闇に取り込むことに失敗した夜鳥は、次のターゲットを巴衛にすえるのである。
毛玉が決定的に闇堕ちしたのは、煌かぶりを取り込んで悪知恵を付けたころである。おそらく、夜鳥の中の煌かぶり成分が巴衛を欲していたのではないか。巴衛に斬られたこともあり、愛憎半ばする感情があったはずである。
なにしろ、彼は巴衛を気に入っていたから。
第16巻第91話 |
「あれが美丈夫と噂の巴衛殿ですかぁ 間近で見てもゾクゾクしましたねぇ 実に生きているのがもったいない あの美貌は死んでからこそ生きるというもの 巴衛殿の死に目にはぜひあいたいものです」(第16巻第91話)
「この美のカリスマが地べたに這いつくばって…雨風にさらされるなんて…! 絶対に許しません…っ」 (第16巻第95話)
夜鳥は、毛玉を核とし、煌かぶり、助、その他取り込まれた出雲の神々や依り代たちのいわば怨念の集合体である。過去の毛玉個人は巴衛に執着はなかったはずだが、夜鳥の「煌かぶり」成分が巴衛を欲したのであろう。
裏返せば、夜鳥を動かしていたものは煌かぶりの部分も大きかったということだ。
毛玉単体は、虐められて自己否定に陥った哀れな毛むくじゃらの生き物だった。しかし、毛玉が煌かぶりを食べたことによって、毛玉は知性を獲得すると同時に、煌かぶりの残虐性、偏愛、ずる賢さ、悪知恵といった部分も継承してしまったのである。
夜鳥の企み:巴衛を闇堕ちさせる
逆上した巴衛が奈々生に妖に戻すよう言ったときに、夜鳥が笑みを浮かべる。これは単に悪羅王の器を見つけさせるために利用しようとするだけでなく、巴衛が「怒り」で我を忘れているのを見て笑っているのだ。
第23巻第136話 |
夜鳥は、悪羅王の魂を闇側に引きずりこむことには失敗したが、次のターゲットを巴衛に移したのだ。怒りで我を忘れている巴衛は、負の感情=ケガレの真っ只中にいる。このときを好機とばかりに、巴衛を自らに引き込もうと企んだ。それがこの「笑み」に表れているのである。
夜鳥の本質は、太古の昔、日の光を隠し、数多のケガレの元凶となった「闇夜」だろう。
それはつまり、人々の恐怖心、恐れなどの負の感情を増幅させるもの。いわば触媒。
地面から生えてくるおぞましい黒い手は、奈落の底へ引き込もうとする闇夜のケガレの象徴。
黒麿は対の姿をとるので手は夜鳥の本質を示すものである。
「…そんなに強いのにあなたはどうして人間になろうとするの?」という台詞は、直接的には巴衛を妬んでいる台詞だが、本質的には、ケガレの元凶である闇夜が、「荒ぶる火」が自分から離れていくのを引き留めようとしているということだ。
妖怪姿に戻り夜鳥と対峙する巴衛の表情は、まさに鬼神の如き、恐ろしい形相である(第23巻第137話参照)。夜鳥に対する怒りのままに暴れる巴衛の姿は、燃え盛る火の山そのものである。まさに「一時の感情に流されて」いる状態である。
第23巻第137話 |
その後、夜鳥は雪路の死と巴衛と悪羅王の訣別の元凶が自分であることを告白する。ついに巴衛は夜鳥の台詞に激高して夜鳥の首を跳ね飛ばし、夜鳥が悪羅王の器に同化する結果をもたらしてしまう。これも直接的には悪羅王の肉体へ頭を飛ばす作戦のようだけれど、本質的には、巴衛の怒りを煽っているということ。
まさに「火に油を注いでいる」のだ。
最後の仕上げが、悪羅王の身体と同化して、巴衛も来るよう誘うこと。
次から次へと燃料を投下され続けた火は益々燃え上がる。
この時の巴衛の表情は鬼の形相であり、怒りMAX状態。
「ではこちらへいらっしゃい」と言って無数の黒い手が伸ばされるのは、まさに、巴衛を闇側へ引き寄せようとしているのだ。
第24巻第139話 |
そもそも、毛玉目線では巴衛を邪魔だと思っているのに巴衛を誘っているのは、毛玉個人の意思というよりは、闇が巴衛をダークサイドに呼び寄せているということなのだ。
巴衛の逡巡
「俺が悪羅王になれば俺が俺でなくなるかもしれない 人間にはなれないかもしれない」(第24巻第139話)
これは、闇と同化したケガレそのものの器に入れば、巴衛本人もダークサイドに堕ちてしまうということだ。
おそらく、再び「心」を解しない原初の「荒ぶる火」となるか、あるいは、自己否定まみれの夜鳥と同化することで、「闇夜」の化身の一部となるか。いずれにしても、人間側からはかけ離れた存在になってしまう。
しかし、巴衛は悪羅王の器を渡さないことに拘ってしまう。
第24巻第139話 |
だがこのクソ野郎に悪羅王を渡さずに済むなら
その後から人間になる道を探せばいい
こいつが悪羅王の顔でのうのうと生きていくなど絶対に許せない……!! 許せるはずがない!!
どのみち先のことなどわからないのだ! この一歩が先の未来がどうなるかなど
(第24巻第139話)
直前に人間の強さの本質を知り、人間になると決めたはずなのに、一時の感情に流されて、その決断を揺らがせてしまうのである。まさに「火」が暴走している状態であり、古代の人々が「穢れ」として恐れた原初の「荒ぶる火」そのものである。
「俺の中のお前」とは
巴衛が黒い手の方へ一歩足を踏み出そうとする瞬間、巴衛は奈々生の幻影を見て、その言葉をきく。
「だめだよ巴衛」「一時の感情に流されて自分を捨てないで 道を見失わないで 私が愛してるのは貴方よ」(第24巻第139話)
第24巻第139話 |
第24巻第139話 |
この奈々生は「巴衛の中の奈々生」であり、奈々生本人ではない。
「俺の中のお前」、つまりは「巴衛の中の奈々生」とはどういう意味だろうか。
神様ワールド的には、奈々生=巴衛の「心の中にいる神様」ということだ。「生きる指針」「モチベーション」「道標」「星」その他「信じる対象」といってもいい。生き方に迷ったときに最後のよりどころとなる道標だ。
今までミカゲをよりどころにしてきた巴衛が、最後の最後で、奈々生をよりどころにしたのである。
「私が愛しているのは貴方よ」とは
この時巴衛がみている奈々生は、奈々生本人ではない。しかし、おそらく、直前の奈々生の台詞を受けたものなのだ。
奈々生は夜鳥に向かって以下の台詞を投げつけていた。
「…人間でも妖怪でも大事なのは器じゃなくて心だよ 本当に誰かを求める時欲しいのは体じゃなくて心でしょ」「たとえ悪羅王の体を手に入れても霧仁の心が入ってなきゃそれは悪羅王じゃない」「それでもいいって言うならあんたは悪羅王の強さと不死の体に執着してるだけの薄っぺらい男だわ」
(第23巻第136話)
この一連の台詞のときに巴衛の描写はなかったが、やはり巴衛もきいていたのであろう。
このときの奈々生の台詞から、巴衛は、奈々生が愛しているのは、自身の体ではなくて心であり、本質であるというメッセージを読み取っていたのだ。
「私が愛しているのは貴方よ」という「巴衛の中の奈々生」の台詞は、奈々生が愛しているのは巴衛の本質であり、夜鳥と同化することで、巴衛の本質が変容することを止めているのだ。
「俺が悪羅王になれば俺が俺でなくなるかもしれない 人間にはなれないかもしれない」(第24巻第139話)というのは、まさに、一時の感情に流されて自分を捨てることであり、人間になるという生き方を見失うものである。しかし、奈々生は巴衛の本質を愛しているのであり、巴衛が巴衛でなくなったら奈々生の愛を失ってしまうのである。
最後の最後で、巴衛は、奈々生ならこのように言うであろうメッセージを閃き、夜鳥の手をとらなかったのだ。
神使契約を解除した意味
巴衛は夜鳥を追いかけ、火の山に入るために一旦奈々生との「神と神使の契約」を解除して妖に戻る。
形式的には、火の中でも夜鳥を追いかけるためだ。
しかし、本質的には、奈々生と「神と神使の契約」を解除した巴衛が、それでも奈々生を自分の「神様」(=自分の大切な存在、「星」、生きる指針、精神的指針)と認識して、自分の道を間違えないか(迷ったときに誰の手をとるか)が試されていたのだ。
すなわち、全編にわたって巴衛の課題とされてきた、「器と本質」問題の集大成である。
過去で雪路を奈々生と勘違いし、呪いが発動して死にかけたのは「本質」をみなかったから。
進化の水を飲んで狐の姿にされてしまったのも、奈々生の心からの言葉を軽視したから。
しかし、巴衛は、火の山で夜鳥の手を取ろうとした刹那に、奈々生の言葉を信じて手を取らなかった。ここに巴衛のよりどころ=心の神様が奈々生と定義されたのである。
巴衛自身の心の中の葛藤を描くもの
ここで夜鳥と奈々生のそれぞれの言葉と手は、メタ的には、巴衛自身の心の中の葛藤を描くものである。
即ち、原初の荒ぶる火に戻ろうとする力と、鎮められた火に変わろうとする力の葛藤である。
「怒りなど負の感情」と「それをコントロールしようとする自制心」の闘いともいえる。
闇夜のケガレそのものの夜鳥と同化することは巴衛自身の本質も変容するものであり、それはひいては奈々生を愛する自身の「心」の変容をもたらすものである。
「愛する者」=奈々生と共に生きるという人生の目標があったので、感情を抑えたということである。
まさにこの時巴衛は「自制心」を獲得したのである。
「自制心を獲得した火」はもはや「荒ぶる火」ではない。自分でコントロール可能な鎮められた火である。
このとき巴衛のケガレは祓われ、巴衛は「神寄り」となれたのである。
「ゆく先が楽しみだ」という言葉は、巴衛が奈々生を生きる指針、道標、星として信じることができたので、道に迷わない=生き方に迷わないから、人生に希望を持てたということであろうか。
社に戻った後、「器」が妖怪のままでも神使の仕事をできていたのは「本質」が重要であることの何よりの証左である。だから本当はまた神と神使の契約をする必要もないはずだけれど、おそらく「ずっと一緒の約束のしるし」として再契約したのだ。
夜鳥はなぜ救済されなかったのか
毛玉が救済されなかったのは、毛玉が誰にも感謝されず、さらには霧仁の大切なものを壊してしまったことにより、霧仁からも否定され、自己否定を克服できなかったからだ。
感情で類型化すれば、巴衛は「怒り」、霧仁は「破壊衝動」、夜鳥は「自己否定」の具象化である。
毛玉単体でみると哀れであるものの、夜鳥が救済されなかったのは、「自己否定」という究極の負の感情の具象化であり、根本的に祓われるべきものだったからだろう。